いきなり過激なお話からはいります。
『歌唱力』の定義、評価のためのモノサシがきちんと決められていない以上、 『歌唱力』の評価というものは、環境や立場といった要素でそれこそ≪柔軟に≫ 変わってしまいます。そのわかりやすい例として、山口百恵と松田聖子の 『歌唱力』評価を取り上げましょう。
この二人は、時代を華やかに彩った"スーパースター" "スーパーアイドル" として、一般に認められていると言えましょう。しかしながら、その『歌唱力』 評価には、あまりにも差がありすぎる気がするのです。
(山口百恵と松田聖子の、「歌唱力分析チャート」に基づく評価)
・山口百恵:(引退近くに)2,(初期から)3
・松田聖子:(初期から)1,(3年目ごろから)3
まず、ふたりの共通の特徴は、聴く側の反応をわかった上で、それをわきまえて 歌える、という「才能」です。 「歌唱力分析チャート」では、これを「客観的(=客の立場を考えて歌う)表現力」 と名づけています。もう少し詳しく言うと、山口百恵は「神秘的」だなあ、 松田聖子は「ブリッ子」だなあ、と聴く側にそのアイデンティティを 強烈に印象づける歌い方ができている、ということです。 聴く側も、それを確認できると、安心して曲を楽しむことに専念できるのです。 これはさすがに"スーパー"がつく二人だけのことはある、と素直に脱帽します。
では、ふたりの大きな違いは何でしょうか。
山口百恵は、引退する年になって、やっと『歌唱力』評価を得ることに成功しました。 この頃になると、単に周りを圧倒する「迫力」のみならず、声に張りが出て、 歌手として成熟を感じさせるようになっていました。 ただ、「声質」はあまり評価されていませんでした。 曲によって、ふさわしい歌い方を自然に選ぶ彼女は、そのためにかなり 「客観的表現力」の利点を十分に生かしきれなかった、 ということができるかも知れません。
ところが、松田聖子は、3年目ごろから、すでに『歌唱力』評価を我がものにして しまいました。 その理由は明らかでした。 彼女は甘い「声質」が独特で、 逆にそれに合わせて楽曲ができてくるため、「客観的表現力」と「声質」の双方から、 アイデンティティを最大限に主張し得たからです。
そして、もっと重要なことが起こりました。それは、松田聖子の 「アメリカ合衆国進出」です。 アメリカには非常に弱いニッポン人のこと、 その市場にうって出る、ということだけで、「これはものすごいことなんだ!」 と思ってしまう。 その≪浅はかさ≫ゆえに、「それだけのことをするんだから、 きっと『歌唱力』だってむこう(=アメリカ)で通用するくらいすごいんだ」、 と思ってしまうのです。 そして、アメリカ進出の大前提たる英語の発音と、 その甘い「声質」だけが認められたに過ぎない彼女が、ニッポンでは 「抜群の『歌唱力』」が評価された、ということになってしまうのです。
幸い(と言っては失礼かもしれないが)、その頃には各種音楽祭も衰退して、 彼女に「最優秀歌唱賞」が与えられることもありませんでした。 しかし、彼女のアメリカ合衆国進出があと2年早かったら、どこかの音楽祭で 「最優秀歌唱賞・松田聖子」ということになる可能性もなかったとは言えないのです。
さらに悪いことに、"スーパー"がつく人をとりあえず非難しない、という ニッポン人の悪しき傾向に、最近さらに拍車がかかっているような気がするのです。 もちろん、"スーパー"がつく側は、商売的にはありがたいわけで、どんどん儲かります。 たとえば、最近の極端な例で言えば、小室哲哉がまさにそれに当てはまります。
そのことにも、当然山口百恵より、松田聖子のほうがあとから来た分、より 「おいしい」思いをしたわけです。
こうして、それほどの「差」があるとは思えないこの二人の"スーパー"女性歌手に、 大きな『歌唱力』評価での「差」がついてしまいました。 でも、冷静に考えてみれば、これは実に不思議なことなのです。
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